嘘っぱち日記用
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「それじゃ」
と言ってドアを閉めると、もう何も無かった。 ドアの向こうにいたのは男だったような気がしたが、 顔も思い出せないし、名前もさっぱり判らなかった。 「そもそも私は誰でしたっけ」 軽口のつもりが、言葉にした途端、現実になっている ことに気付いた。体を見る限り女みたいだけれど。 (鏡がないから顔も判らない。少なくとも体つきは、 魅力的とは言い難いみたいだ) 途方にくれて、とりあえず鞄から手帳を取り出し、 一番見覚えがある気がする住所へ、タクシーで乗りつける ことにした。携帯電話で連絡することもできたが、 今の状況を誰かに説明できるなんて思えなかった。 説明できたら助けなんて要らない、とも言える。 ** ドアを開けた女は、反射的に顔をしかめ、 「開けるんじゃなかった」 と吐き捨てた。存在感のある女だ。大柄ではないが 大づくりな顔をしていて、眼の光が強い。 射るような視線で一瞥した後に、ふくよかな唇をゆがめて 「--のとこからご帰還?」 と皮肉っぽく尋ねた。男の名前だ。むろん記憶にはない。 さきほど出てきた家の男だろうか、と考えながら 「実は記憶喪失になってしまったようで」 丁寧に返事をした。女は一瞬眼を見開いて、なぜか、 馬鹿にしたように笑った。 ** 「あんなに泥沼愛憎劇を繰り広げたのにねえ」 女は洗い物をしながらそんなことを言う。あの後、 結局彼女は私を家にあげて、夕飯まで食べさせてくれた。 デパートの地下で売っていてもおかしくないような 小洒落ていて手が込んでいてバランスの取れた食事。 ひとくち食べて感動した私は、感動したまま全てたいらげ いやあ素敵ね親友ってすばらしいわね、などと口走り 対面の椅子に(文字通り)斜に構えて座っていた女に よくもそんなでたらめを、と感心されたのだった。 印象に残っている同性なら親友だろう、という 私の希望的観測は見当外れもいいところだったらしい。 私と女とは、ひと月ほど前一人の男を取り合った いわゆる宿敵だったのである。なんとまあ、昼ドラみたいな。 (である、という語尾は多少時代劇風味でしょうか) ** それにしても暖かい部屋と食事と旨い酒。たまらん。 ほどよく回ったワインで脳みそを春色に染めた私は 心地よい家と食事を提供してくれる人こそ 親友と呼ぶべきではなかろうかという妄想に取り付かれ 「でもだからさ、過去は水に流して友達になろう、私たち」 と発作的に提案して、本日二度目の馬鹿にした笑いを見た。 「べつに根に持っちゃいないわよ」 二日顔見なかったら忘れたし、つまんない男だったわねえ と続ける。二日どころか一瞬で名前まで忘れた私は、 腹を立てるべきなんだろうなあと思いつつもへらへらと笑う。 「だから今さら機嫌取りにくることないのよ、あんたも」 女は今度は湯を沸かしている。シンクに紅茶の缶が出ている。 「紅茶飲んだら帰りなさいね。変なお芝居はやめにして」 お芝居じゃなくて本当に忘れたんです、と応えようとして ふと息が詰まった。ワインをもう一口含む。 舌を痺れさせるアルコールの薫りが抜けたら、すべてを 思い出せる、ような気もした。 PR |
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